私家版 伯剌西爾(ブラジル)移民史 第1回
Author : tomato | 2008.08.11
先日のエントリーでちょっと書きましたが、父に頼んで用意してもらった体験談と移民の歴史に関する文章が私の手元にあります。
内容は移民の歴史に始まり、その当時のブラジルのマスコミの報道、父が生活の中で見聞きした事等です。
史実と父の感想が混じっているので、タイトルは"私家版"としました。
随分前に書いてもらったにもかかわらず、長いこと置きっぱなしで申し訳ないと思っていましたが、ブログの準備も整い、ようやく公開できるようになりました。
ただ、1回で載せられる量ではないので、今回からそれを数回に分けてアップして行きます。
来月には父が日本に来るので、その時また新しい話が聞けるかもしれません。そうしたら随時ブログに載せたいと思います。
あ、それから、ブログに投稿することを前提とした書いたものではないので、文章の分割が不自然で読みづらいかもしれませんが我慢してくださいね。
1908年(明治41年)6月18日、9時30分皇国殖民合資会社(水野龍社長)募集の781名の農業契約移民(165家族733名・独身者48名)ほか自由渡航者12名を乗せた笠戸丸(6000トン)サントス港着から始まる。
第1回の笠戸丸移民であった香山六郎(こうやまろくろう)によると船は6月17日の夜、まずサントス港外に仮停泊して夜明けを待っていたが星の降るような晩だった。(日本とは反対で季節は初冬になる)
2万4000キロの船旅を終わって、サントス港外に仮停泊した夜の移民の気持ちは不安と希望の入り混じった夜であった。
移民と同船した皇国植民地会社社長水野龍(みずのりゅう)50歳の「笠戸丸航海日読」には簡単に『6月18日晴れ、木曜、朝サントス入港、午後5時ドック着岸』とある。
この朝港入港は午前9時半であって、船はまだ岸ぺきに着いていない。
検疫は簡単にすんだ。サンパウロからの出迎え人が乗船してきた。
日本公使館の三浦荒次郎通訳官、サンパウロ移民収容上の日本人書記官鈴木貞次郎、皇国植民地会社代理人ラファエル・モンテイロとサンパウロ藤崎商店の後藤武夫の4人であった。
船内には金なる木のコーヒー園と思い移民たち皆が興奮していた。
ちょうど6月のサン・ジョン際が近くであったので、フォゲッチ(爆竹)が爆音をとどろかせバロ(火をともした紙風船)も飛んでいた。
移民たちは感嘆して大空を見上げ、ブラジル国民が日本人移民を歓迎していると思った。


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